「信長公のおもてなし」が息づく 戦国城下町・岐阜ストーリー


「信長公のおもてなし」が息づく 戦国城下町・岐阜ストーリー

日本遺産に認定されたストーリーをおさらい

織田信長公が岐阜の地で行ったのは戦いではなく、文化の力で有力者たちを迎える、手厚いもてなしでした。山麓の巨大庭園を持つ迎賓館や、山上の城郭、そして金華山や長良川の美しい自然環境や眺望を活かした岐阜の各所で、自らが案内や給仕を行ったそうです。
武田信玄の使者・秋山伯耆守、京都の公家・山科言継、堺の茶人であり商人・津田宗及、そしてイエズス会宣教師のルイス・フロイスやフランシスコ・カブラルなど、多くの有力者が信長公からのおもてなしを受けています。もてなしの拠点である「山麓居館」では、豪華な料理や演奏が披露され、山頂の岐阜城内も案内されたといわれています。さらに、濃尾平野を一望する山上からの絶景は、案内された者だけの特権でした。

また、城下町でのもてなしにも諸説が残っています。「楽市楽座」など柔軟なまちづくりが行われ、国内有数の都市へと発展した「戦国城下町」の街路などの骨格は、現在も継承されています。山科言継が岐阜に滞在中に訪れた善光寺や法華寺などの名所のほか、伊奈波神社で行われる祭礼も時期が合えば見物したことでしょう。
そして、城下町のもてなしといえば、「ぎふ長良川鵜飼」。鑑賞はもちろん、鵜飼で捕れた鮎は、美濃の特産品として重宝されました。その鮎を使って作られた鮎鮨と呼ばれる寿司を将軍家に献上するために使われた「御鮨街道」は、今も多くの人が行き来しています。
信長公は金華山などの自然と城下町が一体となった素晴らしい景観や鵜飼文化にその価値を見出し、軍事施設である城に「魅せる」という独創性を加えました。岐阜は信長公自慢のおもてなし都市だったのです。その信長公が形作った城や町並み、鵜飼文化は今も岐阜の地に息づいているのです。

日本遺産を構成する文化財をめぐってみよう

信長公のおもてなしの拠点の一つとなった「岐阜城跡」をはじめ、日本遺産を構成するさまざまな文化財などを、そのストーリーを振り返りながらご紹介します。

信長公が行った柔軟なまちづくりによって発展した岐阜の城下町。ルイス・フロイスは、そのにぎわいの様子を「バビロンの混雑」と表現しています。信長公の家臣・柴田勝家の邸宅に招かれた際には、食事をするまで帰してもらえなかったというエピソードも残っており、信長公のおもてなしの精神は城下町までおよんでいたことがわかります。
町では名所見物のほか、「伊奈波神社」の祭礼などで客人を楽しませました。山科言継は、一カ月以上もの滞在中に、「善光寺」や「法華寺」などを訪れています。最も人々を魅了した長良川の鵜飼は、武田家の家臣・秋山伯耆守をはじめ、徳川家康・秀忠親子らが鑑賞し、その幽玄さを称えたといわれています。
多くの客人たちのもてなしにまつわる文化財をめぐり、この地を訪れた歴史上の人物たちに、想いを馳せてみませんか。

ぎふ長良川鵜飼

ぎふ長良川鵜飼

鵜飼見物は信長公をはじめとする権力者たちにおもてなしとして用いられ、国内外の多くの客人が鑑賞に訪れています。「長良川の鵜飼漁の技術」は国重要無形民俗文化財、「長良川鵜飼用具」は国重要有形民俗文化財に指定されています。

法華寺

法華寺

信長公の岐阜城入城後、清州から移転されたと伝えられる寺で、現在は岐阜市矢島町にあります。山科言継は岐阜滞在中に長良川とセットで訪れました。

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善光寺

善光寺

山科言継は岐阜滞在中に2度もお参りに訪れたといわれています。信長公の息子・信忠により信州の善光寺如来が移されていた時期もあったといわれています。

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 伊奈波神社

伊奈波神社天文8(1539)年、稲葉山城の築城にともなって、斎藤道三公が現在の場所に移したと伝えられています。岐阜市の総産土神で、毎年4月に「岐阜まつり」を開催しています。

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岐阜まつり

岐阜まつり中世から続く伊奈波神社の祭礼。現在は「道三まつり」と同日の4月の第1土曜日に開催。江戸時代の史料には、27台もの山車が描かれていることから町をあげての祭りであったといわれます。現在残されている4台の山車は市有形民俗文化財に登録されています。

現代に残る信長公の足跡

ほかにも市内には、信長公や道三公とのゆかりの深い名所が多く残っています。信長公の生きた時代を感じながらめぐってみてはいかがですか。

崇福寺(織田信長父子廟)

崇福寺

信長公父子の菩提所
信長公が岐阜城入城直後に出した禁制や直筆とされる書、嫡男・信忠からの書状などが伝わる、織田家とゆかりの深い寺院です。
本能寺の変の後、本堂裏に「織田信長父子廟」が築かれ、側室のお鍋の方が父子の「位牌所」と定める手紙や、豊臣秀吉から譲り受けたという位牌も安置されています。

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円徳寺

円徳寺

楽市楽座ゆかりの寺
信長公が現在地に寺を移したことや、鐘を寄進したことが日付とともに刻まれた「梵鐘」が残ります。ほかにも信長公の手による「楽市楽座制札」や、父・信秀が稲葉山城を攻めた際の戦死者5千人を葬った「伝織田塚改葬地」、嫡孫・秀信が使った「銀箔押烏帽子形兜」など、織田家ゆかりの品が多く伝わっています。

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立政寺

立政寺

天下布武始まりの寺
智通光居によって開かれたこの寺に、信長公は岐阜城に入った翌年の永禄11(1568)年、室町幕府第15代将軍で、足利義輝の弟・義昭を招き、会談を行ったといわれています。その後、近江勢の平定に乗り出し、義昭を擁して京都に入ります。信長公が天下統一の計画を進め始めた場所です。

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道三塚

道三塚

斎藤道三公の遺骸を葬った塚
信長公の舅にあたる斎藤道三公は、家督を譲った後の弘治2(1556)年に子・義龍との長良川の戦いで敗北します。その道三公の遺骸を葬ったのが、この「道三塚」です。当時は現在の場所よりも、やや南にありましたが、洪水で流失したため、天保年間(1830~43)に現在の場所に移されました。

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